事故だ。右からいきなりぶつけられた。気がつくとベッドの上。主人公ポールの意識は病室でやっとクリアになる。右膝から下がない! 舞台はオーストラリアのアデレード、作者クッツェーが生地ケープタウンから六十二歳で移民した街だ。
片足をなくした六十男のポールはフランスからの移民で独り者。流暢に英語をあやつるが、心の奥にいつも身の置き所のなさを抱えている。頼みの綱は介護士マリアナで、これまたクロアチアからの移民だ。家族もちの彼女に横恋慕したポールは、一家とのつながりを必死に求めながら生きる喜びを取り戻していく。
と書くと、ピリ辛ながら心温まる話か、と浮上する淡い期待はさらりとかわされる。こつ然とエリザベス・コステロなる人物があらわれて、ポールに、あんたは私の書いている作品の登場人物、とのたまうのだ。ここで物語の足場がメビウスの輪のようにくるりと反転するからたまらない。
作品内で熾烈な議論をかわすポールとエリザベスは、いってみれば作家の分身だ。援助し、援助される両者が最後には和解か、との予感もまた見事にはずれる。
かくして削りに削り、文飾を排した文章が、加齢、男の欲望、移民、世代間のギャップ、写真のオリジナルなど、すぐれて現代的な問題をラジカルに提起しながら、読み手の意識にゆさぶりをかける。明晰かつ暗示的な文章展開のなかに、人の心の弱さ、柔らかさをふっと感知させるところがクッツェーらしい。老いゆく移民者の生をえぐるリアルに入り組んだ物語のフルコースが、舌上にコミカルな苦みを鮮やかに残すところも見事だ。
クッツェーは南アフリカという「辺境」から苛烈なことばを発信しながら、われわれが偶然産み落とされて不安のうちにおかれる世界を、歴史的、地理的に透視できる作品を書き続けてきた。二〇〇五年発表の本作は、この作家が、技巧は凝らすが空疎なファンタジーに逃げず、苦い現実を苦いままに提示する希有な書き手であることをあらためて教えてくれる。
早川書房刊 鴻巣友季子訳