2012年4月1日日曜日

書評:J・M・クッツェー『動物のいのち』

──フィクションにどこまで何ができるか──

南アフリカの作家J・M・クッツェーがノーベル文学賞を受賞、というニュースが流れたのは2003年10月だ。本書はタイムリーにその翌月出版され、帯には「邦訳最新作」とあるが、クッツェーの文章は全体の約半分。

 タイトルにもあるようにこの本は「動物の生命」をテーマに、米のプリンストン大学で行われた講演の記録である。まず同大学教授エイミー・ガットマンによる導入部があり、次に1997年と98年にクッツェーが行った講演(といっても、二部構成のフィクションを作家みずからが朗読したもの)がならび、さらにその内容に呼応して4人の学者が感想や意見を出すという構成だ。4人の学者とは、宗教史学者ウェンディ・ドニガー、英文学者マージョリー・ガーバー、人間生命倫理学者ピーター・シンガー、文化人類学・動物学者のバーバラ・スマッツで、原著は九九年にプリンストン大学出版局から出ている。
 ここでは、もっぱら作家クッツェーの文学形式に焦点をあててみたいと思う。

 本書に含まれる「哲学者と動物」と「詩人と動物」という2篇では、オーストラリアの女性作家エリザベス・コステロがマサチューセッツのアップルトン大学に講演者として招かれる、という設定になっているが、これはクッツェー自身の講演と講演内容の関係を、そのままテキスト内部に持ち込むという、いわば入れ子式二重構造といえる。こういった事実とフィクションの境界を曖昧にする、あるいは、相互に侵食しあう形式は、この作家がよくもちいるもので、第一作目『ダスクランド』から見うけられる。実在する人物や既成の作品、作家などを強く連想させる固有名を使い、その性格、役割などを微妙にずらしたり入れ替えたりしながら、無駄を一切削ぎ落とした静謐な文体で、新たな作品を創り出す、それがクッツェーの流儀だ。

 本テキスト内のアップルトン大学では偶然、エリザベスの息子であるジョンが物理学の教授をしている。クッツェーのファーストネームをもつこの「ジョン」は、主人公のかたわらに寄り添いながら常に冷静なコメントを発する人物として各テキスト内に顔を出す。これもまた、作家自身と作品内部の人物をダブらせ、事実とフィクションの相互侵食作用をうながす仕掛けだ。

 さて、テキスト内の主人公エリザベス・コステロは動物の肉を食べない。肉を食べる人間と同席して食事することにも耐えられない。家畜としての動物が食肉のために殺されることに罪悪感を抱いているのだ。「私の菜食主義は自分の魂を救済したいという強い願望からくるものです」といった発言が、息子家族とのやり取りや講演会後のディナーなど、いたるところで論争の火種をまく。彼女がやむにやまれずつい口にすることばが「動物の生命」をめぐる哲学的、倫理的な問題を惹起して、同席者の居心地をわるくするのだ。

 じつは、『少年時代』や『恥辱』でも明らかなように動物の生命に深い関心を寄せる作家クッツェーの、カウンター・エゴとも思えるこのエリザベス・コステロが、彼の作品内に登場したのはこれが初めてではない。1996年11月にヴァーモント州ベニングトン大学で行われた講演「リアリズムとは何か?」が翌年、同大学出版局から少部数出ているが、その冒頭に1927年生まれの作家として登場している。

 興味深いのは昨年9月、それらの講演も含む『エリザベス・コステロ』が1冊の本となって出版されたことである。目次を見てちょっと驚く。すべての章に「レッスン」という語がついているのだ。第1課「リアリズム」(ベニングトン大学の講演だ)、第2課「アフリカにおける小説」(アフリカで文学や作家がどのような位置にあるか)、第3、4課「動物の生命」(本書の内容)、第5課「アフリカにおける人文学」(南アのエイズ治療に献身する姉妹ブランシュの話)等と、まるで教科書のように読み進み、学んでいく構成になっているのだ。哲学や倫理学があつかうテーマを、いわゆる専門用語を用いず、老女性作家の口を通して、あくまでフィクションとして読者の前に提示するクッツェーの手法が際立つ。

 こういったクッツェーの作品を読んでいると、この作家に顕著なひとつの姿勢が見えてくる。フィクションに(文学に)どこまで何ができるか、と厳しく自問しながら、ヨーロッパ的価値観の根幹ともいえる部分へと遡及して書くスタンスである。この作家の核に染み込んだ「植民地アフリカ」が、作品の細部を照らすバックライトとなって、じわりと滲み出すのがわかるのだ。

 つい先ごろも書評紙「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス/1月15日付」に「ひとりの女性が老いていくと」という文章が掲載された。そこではコステロが息子ジョン、娘ヘレンと地中海リゾートのニースで再会する。「老い」を「死」を凝視するエリザベス・コステロの活躍はまだまだ続くようだ。

森祐希子・尾関周二訳(大月書店)

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付記:2004年2月14日付「図書新聞」に掲載された文章に、少しだけ加筆しました。
 この書評を書いてから8年にもなるのか、と時の経過を痛切に感じます。その後のエリザベス・コステロの活躍には目を見張るものがあります。

2012年3月17日土曜日

書評:J・M・クッツェー『遅い男』

 事故だ。右からいきなりぶつけられた。気がつくとベッドの上。主人公ポールの意識は病室でやっとクリアになる。右膝から下がない! 舞台はオーストラリアのアデレード、作者クッツェーが生地ケープタウンから六十二歳で移民した街だ。
 片足をなくした六十男のポールはフランスからの移民で独り者。流暢に英語をあやつるが、心の奥にいつも身の置き所のなさを抱えている。頼みの綱は介護士マリアナで、これまたクロアチアからの移民だ。家族もちの彼女に横恋慕したポールは、一家とのつながりを必死に求めながら生きる喜びを取り戻していく。
 と書くと、ピリ辛ながら心温まる話か、と浮上する淡い期待はさらりとかわされる。こつ然とエリザベス・コステロなる人物があらわれて、ポールに、あんたは私の書いている作品の登場人物、とのたまうのだ。ここで物語の足場がメビウスの輪のようにくるりと反転するからたまらない。
 作品内で熾烈な議論をかわすポールとエリザベスは、いってみれば作家の分身だ。援助し、援助される両者が最後には和解か、との予感もまた見事にはずれる。
 かくして削りに削り、文飾を排した文章が、加齢、男の欲望、移民、世代間のギャップ、写真のオリジナルなど、すぐれて現代的な問題をラジカルに提起しながら、読み手の意識にゆさぶりをかける。明晰かつ暗示的な文章展開のなかに、人の心の弱さ、柔らかさをふっと感知させるところがクッツェーらしい。老いゆく移民者の生をえぐるリアルに入り組んだ物語のフルコースが、舌上にコミカルな苦みを鮮やかに残すところも見事だ。
 クッツェーは南アフリカという「辺境」から苛烈なことばを発信しながら、われわれが偶然産み落とされて不安のうちにおかれる世界を、歴史的、地理的に透視できる作品を書き続けてきた。二〇〇五年発表の本作は、この作家が、技巧は凝らすが空疎なファンタジーに逃げず、苦い現実を苦いままに提示する希有な書き手であることをあらためて教えてくれる。

  早川書房刊 鴻巣友季子訳