2009年12月18日金曜日

カマキリと月──南アフリカの八つのお話

<こどもに贈る本>
 子どもに本なんか贈らない、いや、はずかしくて贈れない。このシリーズのタイトルをみてひねくれもののわたしは、反射的につぶやいてしまいました。これまでに、人に本を贈ったことが数えるほどしかないのです。もし、その人が読みたくない本だったらどうしよう・・・と贈ってから心配で夜も眠れなくなったり、逆に「おもしろいから」といって贈られた本がおもしろくなかったら、くれた人の魅力までどこか薄らいでしまうのも悲しいし・・・と不安や悩みが風船みたいに膨らんでしまうのです。

 子どもだってきっと・・・、とわたしは一方的に想像します。だから、大人が子どもに本を贈る、なんてどこか押しつけがましくてはずかしいのです(その子がほしい本なら話は別ですが)。
 そこでわたしは、もっぱら自分のために本を買うことにしています。これはいい! おもしろい! 子どもに読めそうだな、と思ったら「スッゴク、オモシロカッタ、アナタガタニモ、ヨメルワヨー!」と大声で言って、その辺にちらかしておきます。だれかが読むだろうと思うからです。子どもはそんなふうに本と出会うほうがいいのです。
 とくに思春期の子どもは、大人が読ませようと思う書物以外から、実にたくさんのことを、それも親にはいえないような「ひみつの」「暗い」部分を吸収していきます。この影の部分が、子どもの成長にはとても大切なのではないかとも思います。それに、子どもにしてみれば、自分の心のなかのできごとを、大人となんか共有したくないし、たとえ親でも(いや親だからこそ)、いちいち踏み込まれたくないのですから。

 前置きが長くなりました。その辺に放り出しておいた本のなかで、二人の娘たちの心に届いた本として、南アフリカの作家、マーグリート・ポーランドの『カマキリと月』をあげておきましょう。

「冬のことです。星たちが、夜という深く青いうつわの中で、氷のかけらをよせ集めたように、きらきらと光っています。年をへてまるくなった茶色の岩がならぶ丘の上には、セグロジャッカルのムプングチェと、そのつれあいが立っていました。
 風が、ひゅうひゅうとむちのような音を立てて、平原をふきわたっていました。」

 南アフリカに、欲が深くて力の強い人々がやってきて、計画的に土地を奪っていく以前から、そこに住んでいたサン人やコーサ人の世界観やものの見かたをよりどころにしながら書かれた八つのお話が入っています。引用したのはそのなかの「ジャッカルの春」の出だしです。

 サン人は、まわりの自然にとけこんで、それと調和したくらしをし、自然を破壊したり、自然のバランスをくずしたりするようなことは、けっしてしませんでした、と作者は「日本の読者へ」のなかで書いています。
 この本には、自然のなかで生きるものたちの、耳慣れない名前がつぎつぎと出てきますが、遠いアフリカの南端を舞台にしたお話にもかかわらず、「小さなカワウソの冒険」などは、娘たちには親しみをもって迎えられました。スプリングボック、カラカル、エランド、リーボックといった動物の名前や、カルーアカシア、ブアブン、ユーフォルビア、シクラルといった植物の名前のもつ音のひびきに耳を澄ましながら、目にしたことのない風景を想像して、読みすすむ楽しさがあります。けれども、とりわけすばらしいのは訳文のなめらかさで、日本語としてのことばのもつ美しさをじっくり味わいながら、物語を楽しむことができるのです。

 めまいを起こすような活字の洪水のなかでやっと出会えたこの本を、初めて読んだのは4年前のことでしたが、心があらわれるような思いでした。二度ほど読んで、二度とも涙が出てきてこまりました。でも、こんな本を読んで大人が泣くのもわるくはないかな・・・とも思うのです。
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この文章は、最初1992年に「本の花束」に掲載され、2000年に『こどもに贈る本』(みすず書房)におさめられました。
 紹介した本は、南アフリカの自然が心打つ物語として、大人も十分に楽しめます。お薦めです!

2009年12月3日木曜日

書評『歳月』──茨木のり子

 2007年に他界した詩人、茨木のり子が48歳のときに最愛の夫と死別してから、夫のイニシャルを記した箱に書きためた、39編の詩からなる遺稿集だ。

 感情を抑制した各詩編から立ちのぼってくるのは、ひとりの男とひとりの女が出会って暮らした25年間の「生」の記憶を、残された側がたどる旅である。いくつもの記憶に時間の光をあて、あらためて意味をつけてことばのピンで留め、感情の濁りはさらりと捨てて、透明になるまで煮詰めていく。それは、先に逝った人との関係の記憶をくりかえし再確認し、再検討し、みずからの旅立ちを準備する作業でもあっただろう。
 その道中に作られた一服の詩「二人のコック」。


 憎しみが
 愛の貴重なスパイスなら 
 それが少々足りなかった 二人のコックの調理には

 で
 こくのあるポタージュにはならず
 二十五年かかって澄んだコンソメスープになりました

 でも 嘯(うそぶ)きましょう
 おいしいコンソメのほうが  はるかに難しい
 そのつくりかたに関してはと


 そう、茨木のり子の詩もまたポタージュではなく、徹底してコンソメ味だった。それもすばらしく透明な。ことばに対する信頼感に羨ましいほどゆらぎのない作法で書く詩人でもあった。

 2006年3月、大きなレンズにぼかしの入った眼鏡姿の詩人の写真が夕刊の追悼コラムに載ったとき、私は思わずその記事を切り抜いた。伝えられた逝き方があまりに見事だったから。それは長い時間をかけて考え抜かれ、周到に準備されたものだった。直球を、ときに剛速球を投げつづけた詩人の、最後の作品だったのかもしれない。

 一度だけ、拙著をお送りしたとき「詩集の礼状はめったに書かないのですが」とお便りをいただいたことがある。嬉しかった。

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2007年4月22日付、北海道新聞に書いた書評に少しだけ加筆しました。