2009年8月2日日曜日

アードリックの『ラブ・メディシン』──こころ癒す愛の妙薬

昨日つまり2009年8月1日の朝日新聞夕刊に、池澤夏樹氏の「多文化の実現とウレシパ──アイヌは日本どう変える?」という記事が掲載された。日本国内の、いわゆる主要民族の文化と先住民文化との関係が、現在という時点で、しかも世界のなかの日本をもふまえて、とても分かりやすく述べられている。
 そこで思い出したのが、ルイーズ・アードリックの小説『ラブ・メディシン』のことだ。彼女は北米ネイティヴ・アメリカンの作家。思い立って、以前、書いた書評をここにアップする。少しだけ手を入れたが、この文章を書いた1990年からすでに19年という時間が流れたことに、軽い驚きをおぼえる。でも、自分の考えていることはあまり変わっていないなあ、とも思う。
 でも、翻訳をめぐる事情は確実に変わってきた。それはまた、これからの翻訳文学のあり方、世界文学のパワーを考えるうえで、またとない契機でもあると思う。

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ものすごい速さで新刊書が回転していく店先。あたり一面、極彩色の活字や広告の海。そんな波に襲われると、一瞬、気力が萎える。めまいを感じながら一冊の書物を手にとる。どうして本なんか読むんだろう。わざわざ忙しい時間をさいてまで──と思いながら。
 でもわたしは読む。こういう書物を読みたかったのだとわかるまで、頑固に読みつづける。書物は食べ物のように何かを養う。だから常時補給していかなければならない。
 書物はまた薬でもある。こころ癒す薬、滋養だ。超管理社会のなかで、日々、目に見えない擦り傷や、引っ掻き傷を無数に作って暮らしているから。
 ルイーズ・アードリックの『ラブ・メディシン』という小説は、この心を癒すための書物だ。この小説を読んでいると、物語ることの力にについて、「語られることば」の力について、考えさせられる。

 1954年にアメリカ合州国ミネソタ州で生まれたアードリックは、フランス系とドイツ系の血を引きながらも、自分はチペワ族であるとはっきり言い切る。「アメリカ大陸が発見」されてから今日まで、本来そこに住んでいた人びとは虐殺され、土地を奪われ、不毛な土地へと囲い込まれていった。征服者が間違って「インディアン」と呼んだ彼らの数は、1000万から70万へと激減したという。
 外部から見れば彼らの世界はすでに崩壊したかに見えるが、じつは今なお独自の文化、社会、政治集団として生きている。その事実を、人びとの壮絶な生を、現在に向かって開いて見せてくれたのが、1984年に発表されたこの『ラブ・メディシン』である。

 物語は、ジューンという女の死をめぐって数珠を繋ぐように語られる。14の章がそれぞれの声をもち、1934年から84年までのあいだに起きた、3世代の人びとをめぐる物語が展開され、たがいに響き合ってひとつの大きな物語を形成していく。
 なかでも第1世代にあたる2人の女、マリーとルルを描く筆致は強く、鮮やか。ルルを愛しているネクター(後に族長となる)が、森のなかで修道院から逃げ出してきたマリーと出会う場面は、なみなみならぬ緊迫感があって読ませる。
 結局、ネクターといっしょになれなかったルルは、次々と父親のちがう息子を産み、ネクターとも会いつづけるのだが、みずからの内部感覚を頼りとして生きる彼女の存在感は圧倒的で、美しい。白人と男の社会がもたらすものへの幻想はみじんもない。ネクターの死後、ルルとマリーの心が深く結ばれる場面も心を打つ。

ラヴ・メディシン(愛の妙薬)とは、狭義には男女間の冷えた愛を復活させる秘薬のことだが、ここでは虐げられてきた人びとの魂を癒し、「物や人を所有的にではなく愛し、おだやかに分かち合って生きる、新しい知あるいは術」をも意味するようだ。
 作品全体が、病み疲れた者を癒す深い力をもっているのは、語ることばがそのような働きを支えているからだろう。

 この小説には、身体のなかに森をもつ男や女がきわめてポジティヴに描かれている(読んでいて違和感さえ覚えるほどだが、逆にその違和感こそ大事にしたいと思うのだ)。光と風のなかで自然と交感する力や、人と人が分かち合い、癒し合う精神と思想の、荒々しいまでの豊かさをかいま見せてくれる場面は圧巻で、文字を超え、文章を超えて迫ってくる。行間に注意深く耳を澄ませば、読み手をかぎりなく解放する「声」を響かせていることにも気づくはずだ。

 口承文芸の長い伝統をもった民族を自認する女性作家の作品が、いま、征服者の、過度に洗練されて、衰えさえ見える活字文化に、奪い尽くされてなお、みずからの富を分け与えているかのようだ。みずからの集団としての屈辱を癒し、尊厳を回復するだけでなく、病み狂った征服者の精神さえをも癒す力を、彼女の作品群は含み持っているかのようだ。

(「週刊読書人」1990年9月3日号に掲載された文章に加筆しました。)

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Louise Erdrich/ルイーズ・アードリック(1954- )
ミネソタ州リトル・フォールズ生まれ。母方はOjibwa オジブワ族(Chippewa チペワ族とも言う)のネイティブ・アメリカン。ノース・ダコタのインディアン居住区で育つ。ダートマス大学でBA、79年ジョンズ・ホプキンス大学でMAを取得した。
 81年、ダートマス大学のアメリカ研究教授M.ドリスと結婚。共著を出版し、養子3人と実子3人を育てたが、別居後の97年、ドリスは自殺。アードリックは現在ミネアポリスに住み、著作のかたわらBirchbark バーチバークという書店を経営している。住宅街の一角にあるこの店には、本だけでなくネイティブ・アメリカンの小物なども置かれ、彼らの集会所のような空間にもなっている。
 彼女のほとんどの作品は、ノース・ダコタのアーガス(架空の町)を舞台に書かれている。短編はO.ヘンリー賞などに数回選ばれた。

 2008年の、エイミー・グッドマンとの会話がこのサイトで見ることがでる。

小説:
Love Medicine (1984)『ラブ・メディシン』(望月佳重子訳、筑摩書房 1990)
The Beet Queen (1986)『ビート・クイーン』(藤本和子訳、文芸春秋社 1990)
Tracks (1988)
The Crown of Columbus [with Michael Dorris] (1991)『コロンブス・マジック』(幸田敦子訳、角川書店 1992)
The Bingo Palace (1994)
Tales of Burning Love (1997)『五人の妻を愛した男』(小林理子訳、角川文庫 1997)
The Antelope Wife (1998)
The Last Report on the Miracles at Little No Horse (2001)
The Master Butchers Singing Club (2003)
Four Souls (2004)
The Painted Drum (2005)
The Plague of Doves (Harper, 2008)

詩:
Jacklight(1984)
Baptism of Desire (1989)
Original Fire: Selected and New Poems (2003)

そのほか、多数。