2013年6月26日水曜日

書評『自由への長い道』──1996年7月

 ここ数年の激動する世界情勢の中で、マンデラほど暑いまなざしを注がれてきた人も少ない。28年というとてつもない年月を政治囚として獄中で闘い抜き、南アフリカ共和国大統領となった超一級の政治家の自伝である。上下2巻で900ページという大部だが、文章はストレートの速球で、とりわけ後半は一気に読ませる。

 ネルソン・マンデラは1918年にトランスカイの小さな村で生まれた。9歳で父親を亡くすが、大学まで進み、弁護士への道を歩みながら解放闘争に加わる。度重なる逮捕、裁判、実刑、活動禁止処分にも屈せず地下に潜り、アフリカ諸国を訪ねて「黒はこべ」として名をはせる。がついに1964年の裁判で終身刑に。
 看守や刑務所長とのやりとりなど、獄中生活のディテールが生々しい。ロベン島の囚人たちがどうやって情報を伝え合ったか。1976年のソウェト蜂起をどのように知り、入獄してくる若者たちの思想や行動をどう受け止めたか。
 80年代の世界的な反アパルトヘイト運動の高まり、特に経済制裁の強化(日本は残念ながら最後まで消極的だった)が功を奏して、90年2月に釈放される直前、白人政府との水面下の交渉がどこでどのように行われたか。知られていなかった事実が続々と明らかにされる。

 ユーモアを屈辱の解毒剤にして人間の尊厳を守り抜く姿勢や、監獄でも白人政権との交渉でも、相手の人柄と立場を一目で見抜き、正確な状況判断に基づいて着実に交渉を進め、粘り強く要求を勝ち取って行く過程が圧巻だ。59歳で肉体労働を免除された後、独房で週に4日、みずから課した腕立て伏せや腹筋運動の回数もすごい。

 マンデラが初めて白人女性の物乞いを見たときの反応が印象的だ。黒人なら見慣れているのに、白人は気の毒と思うのだ。長い間に「あたりまえのこと」として内面化された差別意識の根は深い。アフリカ諸国が熱い視線を注ぐ「民主国家南アフリカ」の、自由への道はまだまだ遠い。

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共同通信社の依頼で1996年に書いた書評に少しだけ加筆しました。いまは絶版のようですが、まだ古書なら入手可能。ぜひ、復刊を! 『自由への長い道(上)』『自由への長い道(下)

おりしも、南アフリカでは1994年の「解放」以後、政権党についてきたANC/アフリカ民族会議の腐敗が限界まできたのだろうか、マンペラ・ランペレが中心になって新しい政党Agang/アハング=Build が立ち上げられた。一向に進まぬ貧困対策、むしろ貧富の差が世界一になった国内状況に「20年は長すぎる」とランペレ自身が業を煮やして国づくりのために結党し、来年の総選挙に向けて活発な活動を開始したのだ。期待したい。
 マンペラ・ランペレという女性はもとは医師で、貧困のうちにおかれた子供たちの状況を書いた国連報告を、私は訳したことがある。それは『二匹の犬と自由』(現代企画室)という本の巻末につけられ、1989年1月に発売された。
 

2013年4月17日水曜日

d-labo 2013年3月12日(火) 19:00~21:00くぼた のぞみ / 翻訳家・詩人 旅する「アフリカ」文学


アフリカ文学との出会い

講師のくぼたのぞみ氏は翻訳家で詩人。翻訳の世界では、特にジョン・マックスウェル・クッツェー、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという2人のアフリカ出身作家の作品を翻訳してきたことで知られている。本セミナーでは明治大学教授の管啓次郎氏を聞き手に、朗読やスライドショーなども交え、アフリカ文学との出会い、2人の作家の特徴とその背景にあるものなどについてお話ししていただいた。
くぼた氏がアフリカ文学の翻訳に着手したのは1987年のこと。最初の依頼は小説ではなくニジェール・コンゴ語族に属するアフリカ民族、ズールー人の民族叙事詩(『アフリカ創世の神話-女性に捧げるズールーの讃歌』)だったという。作者はマジシ・クネーネ。英語で書かれたものだったが、そこにあったのはヨーロッパ的な文化や思想に慣れた身としては、まったく違う捉え方をした作品だった。「すごい」と思って引き受けた。と同時に「なぜ私のところに?」とも思ったという。
「実はこれには伏線があったんです。」
この仕事を受ける数年前、くぼた氏はトニ・モリスンの『青い眼が欲しい』や、アリス・ウォーカーの『メリディアン』など北米の黒人女性作家の作品を収録した選集を読んでいた。当時のくぼた氏は子育ての真っ最中。忙しいなかで読んだ本は「心を揺さぶる」ものだった。翻訳という仕事はもともと東京外国語大学に通っていた学生時代から志望していたもの。若い頃は音楽業界にいたので離れていたが、この選集を読んで「こういうものをやりたい」とあらためて口にするようになった。
「どうもそれが依頼された方の耳に入ったみたいなんです。」
「アフリカ」という言葉は共通しているが、くぼた氏が惹かれたのはアフリカンアメリカンの現代文学。対して依頼された物は古典的な叙事詩だった。「本当にアフリカのことなど知らずに始めた」というくぼた氏。その試行錯誤の日々の中で、やがてクッツェーとの出会いが訪れることになる。

「声」で語り継がれてきたアフリカの文化

「クッツェーを紹介してくれたのはアメリカ人の友人でした。私がズールー人が暮らす南アフリカについて調べていると、『これを書いているのも南アフリカの作家だよ』とクッツェーの本を手渡してくれたんです。」
読んだのはペンギンブックスの『Life &Times of Michael K』。
1983年にブッカー賞を受賞した作品だった。アパルトヘイト政権下の南アフリカを舞台にした小説は、「読んでいて得体の知れない力を持っていた」。バックカバーに載っている作者の肖像にも魅力を感じた。意志的な顔をした白人男性。自称「ミーハー」のくぼた氏は、この白黒の写真に「この人には何かがある」と感じて翻訳を決意した。結果としてそれは最初に依頼を受けた民族叙事詩よりも先に刊行されることになる。以後、作者のクッツェーとは主に手紙を介してやりとりをする仲に。実際に顔を合わせたのはそれからだいぶ経って、2006年のクッツェーの初来日のときだったというが、その間にもくぼた氏はクッツェーの自伝的三部作の一作目である『少年時代』を刊行している。
一方のアディーチェとの出会いは2000年代に入ってから。黒人女性作家であるアディーチェは、かつて心を揺さぶってくれた北米のアフリカ系女性作家に連なる存在だった。
「なぜ自分がアフリカ系女性作家を好きになったのか。それを遡ると学生時代の体験にあったように思います。」
くぼた氏が大学に入学したのは大学闘争が起きた1968年。「信じてきたものが壊れた」ショックは大きかった。そのとき出会ったのが文学とジャズだった。サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドなどの女性ボーカリストたちにのめりこんだ。聴くたびに「声」が体に響いた。振り返ると「支えてもらっていた」。そうした黒人女性たちの「声」は後に出会った作家たちの作品にも息づいていた。文体の陰に隠れている「声」。アフリカの文化は文字よりも声で語り継がれてきた。そういう意味で、ジャズも文学もくぼた氏にとっては「不可分なもの」であるという。

旅する2人の作家

クッツェーは1940年生まれのオランダ系白人作家。アディーチェは1977年生まれの黒人作家。前者は南アフリカの出身で後者はナイジェリアの出身。年齢も性別も人種も、そして書く小説も違う2人だが、両者には「旅する作家」という共通点がある。クッツェーは21歳でイギリスに渡り、アディーチェは19歳でアメリカに留学している。クッツェーはその後、アメリカにも渡る。そして現在はオーストラリアに暮らしている。2人とも作品を書くときは英語だが、それぞれアフリカーンス語やイボ語とのバイリンガルだ。そして海外から自国=アフリカを見たことで小説を書き始めた。クッツェーが書くものは植民者の末裔として生まれ、加えてアパルトヘイトという時代を体験したアウトサイダーの物語。そこには「人間は生まれる場所も親も言語も選べない」という意識が常にある。それがクッツェーの創作の原点。その作品には「倫理性」というこの作家ならではの特徴がある。かたやアディーチェには「ヨーロッパから色眼鏡で見られてきたアフリカを書き変えたい」という強い想いがある。本当のアフリカの姿を伝えたい。それが作家としてのアディーチェのテーマだ。
講師自らの朗読は、アディーチェの『アメリカーナ』と『シーリング』、クッツェーの『少年時代』の部分訳。ストーリー性の高いアディーチェの小説はその先はどうなるのだろうという期待感を抱かせる。対して内省的なクッツェーの文章にも強力な磁力を感じる。どれも読みごたえがある作品であることに疑いはない。
後半は、2011年11月に旅した南アフリカの写真をスライドで紹介。この旅でくぼた氏はクッツェーの小説の舞台となるケープタウンの町やその周辺を巡り歩いた。「おまけ」は来日時に撮った2人のスナップ写真。睨むような視線のクッツェー氏と朗らかなアディーチェ氏。対照的な表情が印象的である。
「いままでの夢はある意味実現してきた」というくぼた氏。この先の夢は「もう一度ケープタウンに行くこと」だという。管氏が披露してくれたのは、「カレンダーにない1年があれば、その間にやり残している仕事を全部やる」という「究極の夢」。ユーモラスな夢にセミナーは笑いに包まれて幕を閉じた。