2009年11月5日木曜日

書評/白戸圭一著『ルポ 資源大陸アフリカ』

アフリカは遠いか? 60年代末のビアフラ戦争、80年代の饑餓キャンペーン、ルワンダの虐殺、メディアのなかで一時的に拡大しては縮小するアフリカ。だがアフリカは本当に遠いのだろうか?

 四年間の毎日新聞ヨハネスブルグ支局勤務中に「格差と暴力」をテーマに据えた記者が、南アフリカとモザンビーク、ナイジェリア、コンゴ民主共和国、スーダン、ソマリアと、豊かな資源があるゆえに激しい紛争が起きつづけている地帯を、周到な準備と、鋭い勘と、まさに強運としかいいようのないパワーで取材し、帰国して結実させた、それが本書だ。

 読みながら「僕の国が貧しいのは資源があるからです」と語るコンゴ民主共和国出身の、在日の知人の顔が何度も思い浮かんだ。

 冷戦時代から常に代理戦争の現場となってきたアフリカ、資源採掘の安全を確保するために大手鉱山会社から武装グループに流れる資金、旧ソ連や中東から大量に流れ込んだ武器、国家予算の大半が軍事費に消えてしまい、教育・衛生予算がゼロという国さえある。
 念入りな統計値と現場取材でまとめた内容は説得力に富み、アフリカと世界各国の緊密な関わりをみごとな切り口で描き出す。とりわけルポの部分は息をつかせずに読ませる。

 モザンビークで美人コンテストと偽り南アの売春宿に売り飛ばされた娘が見せる恥じらい。ナイジェリアで初めて石油が採掘された村に、いまだに電気がないと語る村長の悔い。密入国したサヘル地帯で会った、ゲリラ戦司令官に随行してきた少年兵のつっぱり。取材相手を描く記者の視線はどこまでもやわらかだ。

 アフリカ各地に紛争状態を維持することで莫大な利を得る者がいる。めぐりめぐってその恩恵を受ける北側社会のなかに私もいる。アフリカはケータイやPCに欠かせない希少金属コルタンの埋蔵量が世界一なのだ。

 周囲の人たちがみんな貧しいところでは凶悪な犯罪は起きないという。だが、目にあまる格差が生み出す暴力は、利を得る北側の日常にもいつか、ブーメランのように帰ってくるのだ。

 アフリカは本当に遠いのだろうか? なにかが遠くしているだけではないのか? そんな問いにこの本はまっすぐ答えてくれる。


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付記:
 もちろんこの本だけで「アフリカ」がすべて見えてくるわけではない。著者の狙いは、あえて紛争地帯を取材して「格差と暴力」という視点から、この大陸の歴史と現在をくっきり浮き彫りにすることにあった。その結果、ニュース価値を高めることに成功したのだ。
 この大陸の多様性はたった一冊の本では見えない。次の本はきっと、4年間のアフリカ滞在中の、ごく日常的な暮らしや、人びとの素顔を伝えるものになることを期待したい。たった一冊の本を読んだだけで「わかったつもりになること」にこそ「シングル・ストーリーの危険」はあるのだから。

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北海道新聞、2009年10月25日書評欄に掲載されたものに少しだけ加筆しました。
『ルポ 資源大陸アフリカ』(2009年8月刊、東洋経済新報社、1900円+税)

2009年10月9日金曜日

『ツォツィ』──アソル・フガード

みんなからツォツィ(ごろつき)と呼ばれる若い男は背中に闇を背負っている。封印した、幼いころの記憶だ。だが、ぬれた新聞のにおいをかぐと胸がうずき、クモの巣を見ると激しい恐怖に襲われる。つきまとう茶色の雌犬のイメージ。

 だから、考えない。

 朝、目覚めた瞬間がいちばん厄介だ。まわりの世界が五感にどっと新たな衝撃をあたえるからだ。まず枕の下のナイフを探り、手に持ったときの安心感を味わう。すると一日が自分のものになる。夕暮れまでに仲間とやりすごして仕事に出る。人を襲って殺し、金を奪うのだ。獲物にした人間から憎しみと恐怖の目で見据えられる瞬間、自分が生きていると実感する。

 ところがある夜、仲間から「考える」ことを迫られる質問を執拗にあびせられて、切れ、雷雨のあがった木陰で襲った女から、靴箱を押しつけられる。目と耳をくぎづけにさせる箱の中身は、生まれたばかりの赤ん坊だ。

 そして男のなかで何かが変わりはじめる。
 
 舞台はアパルトヘイト時代の南アフリカ大都市周縁部。白いタウンと「有色」の人たちが住むタウンシップをつなぐ地区だ。やわらかな心が育つはずの子ども時代をいきなり断ち切られたまま大人になった男が、人生再生の糸口をつかむ物語。暴力が渦巻く日常を、克明な心理描写と、ト書きのような情景描写で読ませる。

 著者アソル・フガードは1989年の俳優座公演「サムとハロルド」や、1992年の文学座公演「マイ・チルドレン! マイ・アフリカ!」などで日本に知られた南アフリカの白人劇作家。『ツォツィ』は彼の唯一の小説だ。書きかけてギブアップした60年代はじめは、解放の光が見えない時代だった。94年のアパルトヘイト完全撤廃から今年2009年で15年の時が経った。だが格差の広がるかの国には、ツォツィの分身はまだ大勢いるのだろう。

忘れたくないのは、作者フガードがその後は、劇場でダイナミックに真実を伝える演劇を選び、体制批判をつづけたのは「白人にもかかわらず」ではなく、「白人ゆえに」だったことだ。ここは間違えないほうがいい。おなじ南ア出身の白人作家J・M・クッツェーもいうように、有色人種に過酷な犠牲を強いる体制から最大の利をえたのは、彼らが属する世代だったのだから。

 当時「名誉白人」だった日本人もまた、無関係ではない。

『ツォツィ』アソル・フガード著 金原瑞人・中田香訳/青山出版社 2007年刊

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付記:2007年5月に、共同通信から配信された書評に加筆しました。
 また、南アフリカがアパルトヘイト体制から本当に解放されたのは、1994年です。白人政権最後の大統領、デ・クラークがアパルトヘイト法の撤廃を宣言した1991年ではありません。アフリカを専門分野とするアカデミックのなかにも、91年と発言する人がいます。91年から94年までの権力委譲交渉の3年間に、じつに大勢の人が政治抗争に巻き込まれて、解放を見ぬままに死んでいます。その事実がややもすると忘れられがちですので、ここに明記しておきます。
 2007年12月に来日したドロシー・ドライヴァーさんとも、この話をしました。オーストラリアでも、91年としたがる傾向があると、彼女もまた指摘していました。

2009年8月2日日曜日

アードリックの『ラブ・メディシン』──こころ癒す愛の妙薬

昨日つまり2009年8月1日の朝日新聞夕刊に、池澤夏樹氏の「多文化の実現とウレシパ──アイヌは日本どう変える?」という記事が掲載された。日本国内の、いわゆる主要民族の文化と先住民文化との関係が、現在という時点で、しかも世界のなかの日本をもふまえて、とても分かりやすく述べられている。
 そこで思い出したのが、ルイーズ・アードリックの小説『ラブ・メディシン』のことだ。彼女は北米ネイティヴ・アメリカンの作家。思い立って、以前、書いた書評をここにアップする。少しだけ手を入れたが、この文章を書いた1990年からすでに19年という時間が流れたことに、軽い驚きをおぼえる。でも、自分の考えていることはあまり変わっていないなあ、とも思う。
 でも、翻訳をめぐる事情は確実に変わってきた。それはまた、これからの翻訳文学のあり方、世界文学のパワーを考えるうえで、またとない契機でもあると思う。

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ものすごい速さで新刊書が回転していく店先。あたり一面、極彩色の活字や広告の海。そんな波に襲われると、一瞬、気力が萎える。めまいを感じながら一冊の書物を手にとる。どうして本なんか読むんだろう。わざわざ忙しい時間をさいてまで──と思いながら。
 でもわたしは読む。こういう書物を読みたかったのだとわかるまで、頑固に読みつづける。書物は食べ物のように何かを養う。だから常時補給していかなければならない。
 書物はまた薬でもある。こころ癒す薬、滋養だ。超管理社会のなかで、日々、目に見えない擦り傷や、引っ掻き傷を無数に作って暮らしているから。
 ルイーズ・アードリックの『ラブ・メディシン』という小説は、この心を癒すための書物だ。この小説を読んでいると、物語ることの力にについて、「語られることば」の力について、考えさせられる。

 1954年にアメリカ合州国ミネソタ州で生まれたアードリックは、フランス系とドイツ系の血を引きながらも、自分はチペワ族であるとはっきり言い切る。「アメリカ大陸が発見」されてから今日まで、本来そこに住んでいた人びとは虐殺され、土地を奪われ、不毛な土地へと囲い込まれていった。征服者が間違って「インディアン」と呼んだ彼らの数は、1000万から70万へと激減したという。
 外部から見れば彼らの世界はすでに崩壊したかに見えるが、じつは今なお独自の文化、社会、政治集団として生きている。その事実を、人びとの壮絶な生を、現在に向かって開いて見せてくれたのが、1984年に発表されたこの『ラブ・メディシン』である。

 物語は、ジューンという女の死をめぐって数珠を繋ぐように語られる。14の章がそれぞれの声をもち、1934年から84年までのあいだに起きた、3世代の人びとをめぐる物語が展開され、たがいに響き合ってひとつの大きな物語を形成していく。
 なかでも第1世代にあたる2人の女、マリーとルルを描く筆致は強く、鮮やか。ルルを愛しているネクター(後に族長となる)が、森のなかで修道院から逃げ出してきたマリーと出会う場面は、なみなみならぬ緊迫感があって読ませる。
 結局、ネクターといっしょになれなかったルルは、次々と父親のちがう息子を産み、ネクターとも会いつづけるのだが、みずからの内部感覚を頼りとして生きる彼女の存在感は圧倒的で、美しい。白人と男の社会がもたらすものへの幻想はみじんもない。ネクターの死後、ルルとマリーの心が深く結ばれる場面も心を打つ。

ラヴ・メディシン(愛の妙薬)とは、狭義には男女間の冷えた愛を復活させる秘薬のことだが、ここでは虐げられてきた人びとの魂を癒し、「物や人を所有的にではなく愛し、おだやかに分かち合って生きる、新しい知あるいは術」をも意味するようだ。
 作品全体が、病み疲れた者を癒す深い力をもっているのは、語ることばがそのような働きを支えているからだろう。

 この小説には、身体のなかに森をもつ男や女がきわめてポジティヴに描かれている(読んでいて違和感さえ覚えるほどだが、逆にその違和感こそ大事にしたいと思うのだ)。光と風のなかで自然と交感する力や、人と人が分かち合い、癒し合う精神と思想の、荒々しいまでの豊かさをかいま見せてくれる場面は圧巻で、文字を超え、文章を超えて迫ってくる。行間に注意深く耳を澄ませば、読み手をかぎりなく解放する「声」を響かせていることにも気づくはずだ。

 口承文芸の長い伝統をもった民族を自認する女性作家の作品が、いま、征服者の、過度に洗練されて、衰えさえ見える活字文化に、奪い尽くされてなお、みずからの富を分け与えているかのようだ。みずからの集団としての屈辱を癒し、尊厳を回復するだけでなく、病み狂った征服者の精神さえをも癒す力を、彼女の作品群は含み持っているかのようだ。

(「週刊読書人」1990年9月3日号に掲載された文章に加筆しました。)

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Louise Erdrich/ルイーズ・アードリック(1954- )
ミネソタ州リトル・フォールズ生まれ。母方はOjibwa オジブワ族(Chippewa チペワ族とも言う)のネイティブ・アメリカン。ノース・ダコタのインディアン居住区で育つ。ダートマス大学でBA、79年ジョンズ・ホプキンス大学でMAを取得した。
 81年、ダートマス大学のアメリカ研究教授M.ドリスと結婚。共著を出版し、養子3人と実子3人を育てたが、別居後の97年、ドリスは自殺。アードリックは現在ミネアポリスに住み、著作のかたわらBirchbark バーチバークという書店を経営している。住宅街の一角にあるこの店には、本だけでなくネイティブ・アメリカンの小物なども置かれ、彼らの集会所のような空間にもなっている。
 彼女のほとんどの作品は、ノース・ダコタのアーガス(架空の町)を舞台に書かれている。短編はO.ヘンリー賞などに数回選ばれた。

 2008年の、エイミー・グッドマンとの会話がこのサイトで見ることがでる。

小説:
Love Medicine (1984)『ラブ・メディシン』(望月佳重子訳、筑摩書房 1990)
The Beet Queen (1986)『ビート・クイーン』(藤本和子訳、文芸春秋社 1990)
Tracks (1988)
The Crown of Columbus [with Michael Dorris] (1991)『コロンブス・マジック』(幸田敦子訳、角川書店 1992)
The Bingo Palace (1994)
Tales of Burning Love (1997)『五人の妻を愛した男』(小林理子訳、角川文庫 1997)
The Antelope Wife (1998)
The Last Report on the Miracles at Little No Horse (2001)
The Master Butchers Singing Club (2003)
Four Souls (2004)
The Painted Drum (2005)
The Plague of Doves (Harper, 2008)

詩:
Jacklight(1984)
Baptism of Desire (1989)
Original Fire: Selected and New Poems (2003)

そのほか、多数。

2009年6月17日水曜日

岡崎がん著『トランス・アフリカン・レターズ』

これは北海道新聞(1997年8月31日付朝刊)に掲載された書評に少し加筆したものです。
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岡崎がん著『トランス・アフリカン・レターズ

読む前とあとでは、あたりの風景がどこかちがって見える、そういう本がある。そしてこれは私にとって、紛れもなくそのたぐいの本だ。やっととれた夏休みの初日、机の上でページが開かれるのを待ちに待っていた本から、アフリカの熱気、湿気、妖気がじわじわと滲みでてきた。一気に読んだ。そして室内の風景が、しばし、変わったのだ。

 20数年前、ひとりのヒッピー風の若者がアジアから中近東を経て、ヨーロッパへ行き、ひょんなことで行き先を南米からアフリカへ変えてジブラルタル海峡を渡る。そのための準備らしい準備もなく、いきなり飛び込んでいくアフリカの旅だ。その旅の記憶が、昨日も明日もなく「いま」を生きるアフリカンタイムにぴったりの臨場感とともに、日本の女友だちにあてた手紙形式で語られる。モロッコ、アルジェリアと地中海沿いに移動し、サハラ砂漠を南下し、ニジェール、ナイジェリア、カメルーン、中央アフリカとヒッチでトラックを乗り継ぎ、妖気ただよう異境ザイールを抜けてケニヤにたどり着く。

 なんといっても、中央アフリカのバンギから川を渡ってザイールへ入る国境越えの話がすごい。ジャングルを文字どおり手探りしながら進むのだ。木をよじのぼり、五感を総動員して沼の上を這い渡るところは圧巻。ナイジェリアの作家、エイモス・チュツオーラを彷彿とさせる世界だ。

 これは、決まり切った道程をスケジュール通りにこなすツアーや観光とは対極の、トラベルという語が本来もつ「トラブル」山盛りの旅だ。こんな旅は、どうころんでも、女ひとりでは無理そうなところがちょっと悔しいが、この本には、アフリカのもっともアフリカらしい部分と身ひとつで関わろうとする者の、若々しい精神が脈打っている。

 でも、マラリアの熱にうなされ、食うや食わずで旅する若者に、一夜の宿を貸すザイールの村人も、いまは戦火にさらされているのだろう。状況は当時と大きく変わった。それでも、というか、それゆえに、というか、とにもかくにもお薦めの一冊である。

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付記:12年も前に書いた書評ですが、その時間の経過をあらためて考えるためにも、ここに書き写しました。古くなった部分、いまも古びない部分、あれからどんどん事態は変わったなあ、と、この本を読むとさまざまな思いが脳裏をよぎりますが、なかでもタイトルの、TRANCE AFRICAN LETTERS の最初の語が、TRANS-(横切って) ではなく、TRANCE(恍惚とさせる)だったのか、と気づいたときは、ちょっと驚きました(笑)。

2009年5月17日日曜日

「きみの首のまわりに」──チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

ナイジェリアの作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの短篇集『きみの首のまわりに/The Thing Around Your Neck』がロンドンの Fourth Estate から出版された。(表題作は最初「アメリカにいる、きみ/You in America」というタイトルで発表された短篇。)

 日本では一足先の2007年秋に拙訳『アメリカにいる、きみ』(河出書房新社刊)が独自版として出ているけれど、今回の英国版は12篇から構成され、そのうち6篇が日本版と重なる。残る6篇はおもに日本語版の内容が決まった後に発表された作品で、未発表作品も1篇ふくまれている。

 新たな6篇とは、ナイジェリアを舞台にした「独房1」「明日は遠すぎて」「頑固な歴史家」の3篇、米国へ移民した人たちを描いた「先週の月曜に」「震え」、南アフリカで開かれた作家会議を皮肉った「ジャンピング・モンキー・ヒル」だ。

 アディーチェは昨年10月に、なんと50万米ドルものマッカーサー奨励金を獲得して、書くことに専念できるようになった。現在イェール大学でアフリカ学の修士号を準備中だが、アカデミズム内の「アフリカを見るステレオタイプの視線」に強く反発するこの作家、それを次の本のテーマにするかもしれない、とあるインタビューで語ったりしている。

 ナイジェリア国内での活動もめざましく、今夏もまた若手作家を育てるワークショックを開催する予定だ。すでにスポンサーも決定したそうだ。
 一方、ネルソン・マンデラやパウロ・コエーリョなど著名人が名をつらねる「教育のためのグローバル・キャンペーン」にも積極的に参加し、そのための短篇「チナサ/CHINASA」を発表、これはネット上で読める。

 ビアフラ戦争を扱った長編『半分のぼった黄色い太陽』を訳しながら、あちこちに出没する31歳の若い作家から目が離せずにいる。

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北海道新聞4月28日付夕刊掲載の「世界文学・文化アラカルト──世界を駆けるアディーチェ」に加筆しました。
 

2009年5月5日火曜日

ドラゴンは踊れない──アール・ラヴレイス

 わらわらわらっ!!  面白い本があらわれた。まだ読んでいる最中なのに、書かずにはいられません。アール・ラヴレイス著『ドラゴンは踊れない』という本です。

 カリブ海のかなり南のほうにトリニダードとトバゴという島々があって、その地のカーニヴァルの話。といっても、観光客めあてにご案内するような本ではなくて、そこに住んでる人たちの暮らしやらその内実やらをしっかり書いている本。たとえば、女はって生きてくお姉さん、喧嘩っ早いお兄さん、頑固な無職のおじさん、偉ぶってるけれどじつは脆い美人のおばさん、かあちゃんの男に殴られるガキンチョなんかも出てきて、カリブ海諸島の歴史も、音楽も、政治も、みーんなひっくるめて大盛りのサラダボールみたいに入っている。年に一度のカーニヴァルに着るドラゴンの衣装を作ってる男が主人公で、彼が住んでるヤード(路地庭)を中心に話は進む。

 それも、息づかいや、声のかすれ具合まで聞こえてきそうな語りっぷりなのだ。ナラティヴ文体といわれるおしゃべり文体もここまで行けば、もういうことなし! 読んでいてこっちまで身体が踊り出しそうになる。職業病で、ついつい、ここ、原文はなんだろう? と思わずエンピツで線を引いたりしてしまう、絶妙な訳文に脱帽!

 それにしても感心するのは、カリブ世界の元奴隷やら年季奉公労働者の、いわば底辺社会の人たちの基本的に「マッチョ」きわまりない世界をここまでリアルに描きながら、作者ラヴレイスの目がものすごく優しいことだ。女にも男にも、人間の強さも弱さも、こすっからさまで含めて、とことん暖かいアプローチなのだ。会話と会話のすきまの、言外の微妙なやりとりを描き出す力もまた、すごい。

 断然、☆☆☆☆☆ です。

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アール・ラヴレイス著 中村和恵訳『ドラゴンは踊れない』(みすず書房刊、2009年2月)

おすすめ書評サイト
  →中日/東京新聞
  →読売新聞
  →毎日新聞

2009年3月10日火曜日

書評『アラブ、祈りとしての文学』──岡真理著

 アラブ、イスラムといった語で括られる世界が、奥の深い、多様な世界であることは想像がつく。だが、分かりやすさを求めるメディアでは、同時代を生きる人間の入り組んだ内実へ近づく手がかりに、ステレオタイプなベールがかかりがちだ。

 そんなベールを一枚一枚はがしながら、文学を糸口にアラブ世界の具体的な現実を見る目を養ってくれる本が登場した。特に表にはあらわれにくい、女たちの暮らしや生・性を想像するための手がかりを、この本はまるで深い井戸のように準備してくれる。水面に見え隠れするその姿を、汲み取ることも不可能ではないとささやくように。

 十五章からなる本書は、著者が学生時代に留学したエジプトやモロッコ、さらにアルジェリア、レバノンなどの作家たちを紹介し、女性の描かれ方に焦点をあてて、社会、歴史、時代などとの関連から作品の構造を解きほぐしていく。

 なかでもパレスチナの作家をめぐる文章は、昨年暮れからのイスラエルによるガザ攻撃とダブって心打たれる。六十年にわたり、住み慣れた土地を暴力的に追われて難民となり、狭い土地に押し込められ、軍事的にも経済的にも支配され、突如、爆弾の嵐に見舞われて、老人といわず子どもといわず殺される暮らし。

 文学は無能か? と著者は問う。アフリカで飢える子供や、パレスチナで石を投げただけで撃ち殺される子供の命を直接救わないという点で、確かに無能だ。だが、現実に直にかかわれないゆえに文学が希望となり、祈りとなることは可能だ。

 人は生まれる時代も場所も選べない。だが文学は、さまざまな規定を受けて生きざるをえない個人が、おのれと異なる者を思いやる力を養う。そのことを示唆する、終章へ向かう筆致は圧巻。

 吸い込まれるような深い瑠璃色のカバーの奥にじっと目を凝らしていると、生きることそのものが抵抗であるような人間の、声なき声が、かすかなつぶやきとなって聞こえてきそうだ。

アラブ、祈りとしての文学』(2008年12月 みすず書房刊)
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北海道新聞/2009年3月8日付に書いたものです。