2014年2月10日月曜日

新世紀・世界文学ナビ──マリーズ・コンデ

新世紀・世界文学ナビ カリブ海編 5 マリーズ・コンデ
毎日新聞2013年2月4日に掲載されたものです。


新世紀・世界文学ナビ: エドウィージ・ダンティカ

新世紀・世界文学ナビ  毎日新聞2012年11月5日
ラティーナ・ラティーノ編 2 として掲載されましたが、ダンティカはハイチ生まれですから、本来ならカリブ海地域に入ります。


2014年1月21日火曜日

新世紀・世界文学ナビ:ラティーナ編/1 サンドラ・シスネロス


新世紀・世界文学ナビ:ラティーノ/ラティーナ編/1  サンドラ・シスネロス
ナビゲーター くぼたのぞみ
毎日新聞 2012年10月29日 東京朝刊

◇ラテン系移民のバイブル

マンゴー通り、ときどきさよなら』(晶文社、96年)をひっさげて80年代のアメリカ文学界に登場したサンドラ・シスネロスは、父がメキシコからの移民一世、母が移民二世、7人兄弟のひとり娘として1954年にシカゴで生まれている。
 作品は、プエルトリコからの移民が住む街に紛れ込んだ一家と、人びとの暮らしを生き生きと描く。夜と昼の二つの職をかけもちして働く父は、いずれもっと良い家に住むぞ、と週末に郊外の住宅見学へ家族を連れ出すが、十代初めの娘エスペランサはそれが実現不能らしいとすでに気づいている。

 短い物語を数珠のように繋いだスペイン語まじりの文体はとても新鮮で、それまで声をもたなかった人びとの声を文字として読むことを可能にした画期的な作品だ。移民街の人たちの心の奥でふつふつと湧く思いを、少女の一見とめどないおしゃべりのような語りにのせながら、ほつれることなくリアルに描き切っている。
 多くの人が、これはわたしの物語だ! と魅了され、勇気づけられたのも頷ける。いまや増え続ける一方のラテン系移民たちのバイブルとなったのも無理はない。

 短編集『サンアントニオの青い月』(晶文社、96年)には『マンゴー通り』の登場人物がさらにリアルに、さらに成長した姿になって登場する。これにメキシコ革命の歴史人物サパタや、現在シスネロス自身が住むテキサス州サンアントニオの暮らしや風物が加わり、メキシコとアメリカの国境をまたいで行き来する人びとの姿が、旅行者の目ではなく、そこに住み暮らす人間の、土に密着した目線で描かれている。
 2002年に出た待望の長編『カラメロ』(未邦訳)は16世紀に遡るメキシコの歴史を編み込みながら、米国へ渡った父親の家族の歴史を娘の目から語るサーガだ。やわらかな語りで構成されるシスネロスの作品は、しかし、しなやかで強靭なものに貫かれてもいる。マチスモと呼ばれる男尊女卑社会の人間関係をとことんあらわにする姿勢である。告発調とはほど遠い技法でそれをやってのけるところがすごい。
 詩人シスネロスには詩集も2冊あって、94年の『ルース・ウーマン』がいい。

 2012年4月に初来日した作家と会って感じられたのは、物腰のやわらかさと、人間への、いや、この地上の命あるものへの懐の深い優しさだった。


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サンドラ・シスネロス/作家本人から

 日本を初めて訪ね、帰ってきたばかりです。でも、日本はこれまで何度か私を訪ねてくれました。15歳のとき、シカゴのヤマモト写真店で日本の女の人たちと隣り合わせで働きながら、封筒は両手で丁重に渡すものだと学びました。もっぱら個別指導でお手本が示されたのは、たいていの人が英語を話せなかったからです。写真店のランチルームで、彼女たちは日本の食べ物を分け合っていました。そしてシカゴ仏教寺院で毎年開かれる「銀座祭」。そこで盆踊りをする、それは優雅な友人ヒロコに私はじっと見入ったものでした。
 日本は人びとを通して私のことろへやってきました。だれもが歩く図書館でした。57歳の私はまだほんの駆け出しにすぎません。でも北斎のことばを言い換えるなら、もし80歳まで生きれば、私もそれなりに進歩するかもしれませんね。


2014年1月14日火曜日

新世紀・世界文学ナビ:カリブ編/5 マリーズ・コンデ

新世紀・世界文学ナビ:カリブ編/5 マリーズ・コンデ=ナビゲーター・くぼたのぞみ
毎日新聞 2013年02月04日 東京朝刊

 ◇文化の衝突から作家が生まれる

 カリブ海の島々は、ヨーロッパ世界が新世界アメリカスを征服するための足場だった。またたくまに先住民が滅ぼされ、労働力としてアフリカから膨大な数の人間が奴隷として運ばれ、コーヒーやサトウキビを栽培するプランテーションで酷使された長い歳月。経営は白人、労働は黒人、その狭間(はざま)で混血が微妙な関係を競った。複数文化が衝突するこの小さな場所は、しかし、驚くべき文学者を数多く輩出してきた。マリーズ・コンデもまた紛れもなくその一人だ。
 3冊の自伝的作品が興味深い。1937年、フランス海外県グアドループ生まれのマリーズが16歳でパリへ留学、初めてエメ・セゼールの『帰郷ノート』を読んで黒人としての誇りに目覚めていく姿をみずみずしいタッチで描いた『心は泣いたり笑ったり』(99年、邦訳は2002年、青土社)。祖母の人生まで遡(さかのぼ)り、愛憎相なかばする複雑な母と娘の関係を解きほぐした労作『Victoire, les saveurs et les mots (ヴィクトワール、風味と言葉)』(06年)。そして最新刊の『La vie sans fards(すっぴん人生)』(12年)だ。これが途轍(とてつ)もなく面白い。
パリでギニア人俳優ママドゥ・コンデと結婚したマリーズは、アフリカに渡って教師をしながらコートジボワール、ギニア、ガーナ、セネガルと職を求め、身の安全を求めて移り住む。夫や義母と不和になり、憧れの政治家は独裁者とわかり、4人の子どもを産み育てながらさまざまな辛酸をなめる。この激動の60年代アフリカ体験から一人の作家が誕生するプロセスを、粉飾を排した容赦ない文章で描き出しているのだ。
 コンデは来日回数も多く、すでに訳された作品も粒ぞろいだ。「セーラムの魔女狩り裁判」をカリブ海出身の女性を軸にして書き直した傑作『わたしはティチューバ』(98年、新水社)、パナマ運河建設に関わったある男の家系を描く壮大なピカレスク小説『生命の樹(き)』(98年、平凡社)、作家の講演録を日本独自に編集した『越境するクレオール』(01年、岩波書店)、かのエミリ・ブロンテの代表作『嵐が丘』をカリブ世界に置き換えた『風の巻く丘』(08年、新水社)と、どれも圧巻。
 ここ数年ノーベル文学賞候補のダークホースとしてひそかに話題になっているコンデが、トニ・モリスンに次ぐ黒人女性作家2人目の受賞、と報じられるのも案外近いかもしれない。(翻訳家・詩人)=毎週月曜日に掲載
 <作家本人から>

 ◇真実を語る試み

 伝記は往々にしてファンタジーとして組み立てられます。どうやら人間というのは、実際に生きた人生とは異なるものとして、美化した自画像を描きたがるようです。
 ですから『La vie sans fards/すっぴん人生』は真実を語る試み、作り話や心地よい安易な理想化を締め出す試み、と考えていただかなければなりません。
 これはたぶん私の作品のなかで最も幅広い読者に読んでもらえる本だと思います。アフリカに自分のアイデンティティを見出(みいだ)そうとするグアドループ生まれの人間が、なかなか作家という天職につく覚悟ができず、長い産みの苦しみをする物語ですが、なによりもまず、人生の難題に直面して苦闘する女性の物語なのです。彼女はつねに、母であるか自分自身であるか、という大変重い、具体的な選択を迫られるからです。(『La vie sans fards』より Copyright2012 by Maryse Condé)

 

2013年6月26日水曜日

書評『自由への長い道』──1996年7月

 ここ数年の激動する世界情勢の中で、マンデラほど暑いまなざしを注がれてきた人も少ない。28年というとてつもない年月を政治囚として獄中で闘い抜き、南アフリカ共和国大統領となった超一級の政治家の自伝である。上下2巻で900ページという大部だが、文章はストレートの速球で、とりわけ後半は一気に読ませる。

 ネルソン・マンデラは1918年にトランスカイの小さな村で生まれた。9歳で父親を亡くすが、大学まで進み、弁護士への道を歩みながら解放闘争に加わる。度重なる逮捕、裁判、実刑、活動禁止処分にも屈せず地下に潜り、アフリカ諸国を訪ねて「黒はこべ」として名をはせる。がついに1964年の裁判で終身刑に。
 看守や刑務所長とのやりとりなど、獄中生活のディテールが生々しい。ロベン島の囚人たちがどうやって情報を伝え合ったか。1976年のソウェト蜂起をどのように知り、入獄してくる若者たちの思想や行動をどう受け止めたか。
 80年代の世界的な反アパルトヘイト運動の高まり、特に経済制裁の強化(日本は残念ながら最後まで消極的だった)が功を奏して、90年2月に釈放される直前、白人政府との水面下の交渉がどこでどのように行われたか。知られていなかった事実が続々と明らかにされる。

 ユーモアを屈辱の解毒剤にして人間の尊厳を守り抜く姿勢や、監獄でも白人政権との交渉でも、相手の人柄と立場を一目で見抜き、正確な状況判断に基づいて着実に交渉を進め、粘り強く要求を勝ち取って行く過程が圧巻だ。59歳で肉体労働を免除された後、独房で週に4日、みずから課した腕立て伏せや腹筋運動の回数もすごい。

 マンデラが初めて白人女性の物乞いを見たときの反応が印象的だ。黒人なら見慣れているのに、白人は気の毒と思うのだ。長い間に「あたりまえのこと」として内面化された差別意識の根は深い。アフリカ諸国が熱い視線を注ぐ「民主国家南アフリカ」の、自由への道はまだまだ遠い。

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共同通信社の依頼で1996年に書いた書評に少しだけ加筆しました。いまは絶版のようですが、まだ古書なら入手可能。ぜひ、復刊を! 『自由への長い道(上)』『自由への長い道(下)

おりしも、南アフリカでは1994年の「解放」以後、政権党についてきたANC/アフリカ民族会議の腐敗が限界まできたのだろうか、マンペラ・ランペレが中心になって新しい政党Agang/アハング=Build が立ち上げられた。一向に進まぬ貧困対策、むしろ貧富の差が世界一になった国内状況に「20年は長すぎる」とランペレ自身が業を煮やして国づくりのために結党し、来年の総選挙に向けて活発な活動を開始したのだ。期待したい。
 マンペラ・ランペレという女性はもとは医師で、貧困のうちにおかれた子供たちの状況を書いた国連報告を、私は訳したことがある。それは『二匹の犬と自由』(現代企画室)という本の巻末につけられ、1989年1月に発売された。
 

2013年4月17日水曜日

d-labo 2013年3月12日(火) 19:00~21:00くぼた のぞみ / 翻訳家・詩人 旅する「アフリカ」文学


アフリカ文学との出会い

講師のくぼたのぞみ氏は翻訳家で詩人。翻訳の世界では、特にジョン・マックスウェル・クッツェー、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという2人のアフリカ出身作家の作品を翻訳してきたことで知られている。本セミナーでは明治大学教授の管啓次郎氏を聞き手に、朗読やスライドショーなども交え、アフリカ文学との出会い、2人の作家の特徴とその背景にあるものなどについてお話ししていただいた。
くぼた氏がアフリカ文学の翻訳に着手したのは1987年のこと。最初の依頼は小説ではなくニジェール・コンゴ語族に属するアフリカ民族、ズールー人の民族叙事詩(『アフリカ創世の神話-女性に捧げるズールーの讃歌』)だったという。作者はマジシ・クネーネ。英語で書かれたものだったが、そこにあったのはヨーロッパ的な文化や思想に慣れた身としては、まったく違う捉え方をした作品だった。「すごい」と思って引き受けた。と同時に「なぜ私のところに?」とも思ったという。
「実はこれには伏線があったんです。」
この仕事を受ける数年前、くぼた氏はトニ・モリスンの『青い眼が欲しい』や、アリス・ウォーカーの『メリディアン』など北米の黒人女性作家の作品を収録した選集を読んでいた。当時のくぼた氏は子育ての真っ最中。忙しいなかで読んだ本は「心を揺さぶる」ものだった。翻訳という仕事はもともと東京外国語大学に通っていた学生時代から志望していたもの。若い頃は音楽業界にいたので離れていたが、この選集を読んで「こういうものをやりたい」とあらためて口にするようになった。
「どうもそれが依頼された方の耳に入ったみたいなんです。」
「アフリカ」という言葉は共通しているが、くぼた氏が惹かれたのはアフリカンアメリカンの現代文学。対して依頼された物は古典的な叙事詩だった。「本当にアフリカのことなど知らずに始めた」というくぼた氏。その試行錯誤の日々の中で、やがてクッツェーとの出会いが訪れることになる。

「声」で語り継がれてきたアフリカの文化

「クッツェーを紹介してくれたのはアメリカ人の友人でした。私がズールー人が暮らす南アフリカについて調べていると、『これを書いているのも南アフリカの作家だよ』とクッツェーの本を手渡してくれたんです。」
読んだのはペンギンブックスの『Life &Times of Michael K』。
1983年にブッカー賞を受賞した作品だった。アパルトヘイト政権下の南アフリカを舞台にした小説は、「読んでいて得体の知れない力を持っていた」。バックカバーに載っている作者の肖像にも魅力を感じた。意志的な顔をした白人男性。自称「ミーハー」のくぼた氏は、この白黒の写真に「この人には何かがある」と感じて翻訳を決意した。結果としてそれは最初に依頼を受けた民族叙事詩よりも先に刊行されることになる。以後、作者のクッツェーとは主に手紙を介してやりとりをする仲に。実際に顔を合わせたのはそれからだいぶ経って、2006年のクッツェーの初来日のときだったというが、その間にもくぼた氏はクッツェーの自伝的三部作の一作目である『少年時代』を刊行している。
一方のアディーチェとの出会いは2000年代に入ってから。黒人女性作家であるアディーチェは、かつて心を揺さぶってくれた北米のアフリカ系女性作家に連なる存在だった。
「なぜ自分がアフリカ系女性作家を好きになったのか。それを遡ると学生時代の体験にあったように思います。」
くぼた氏が大学に入学したのは大学闘争が起きた1968年。「信じてきたものが壊れた」ショックは大きかった。そのとき出会ったのが文学とジャズだった。サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドなどの女性ボーカリストたちにのめりこんだ。聴くたびに「声」が体に響いた。振り返ると「支えてもらっていた」。そうした黒人女性たちの「声」は後に出会った作家たちの作品にも息づいていた。文体の陰に隠れている「声」。アフリカの文化は文字よりも声で語り継がれてきた。そういう意味で、ジャズも文学もくぼた氏にとっては「不可分なもの」であるという。

旅する2人の作家

クッツェーは1940年生まれのオランダ系白人作家。アディーチェは1977年生まれの黒人作家。前者は南アフリカの出身で後者はナイジェリアの出身。年齢も性別も人種も、そして書く小説も違う2人だが、両者には「旅する作家」という共通点がある。クッツェーは21歳でイギリスに渡り、アディーチェは19歳でアメリカに留学している。クッツェーはその後、アメリカにも渡る。そして現在はオーストラリアに暮らしている。2人とも作品を書くときは英語だが、それぞれアフリカーンス語やイボ語とのバイリンガルだ。そして海外から自国=アフリカを見たことで小説を書き始めた。クッツェーが書くものは植民者の末裔として生まれ、加えてアパルトヘイトという時代を体験したアウトサイダーの物語。そこには「人間は生まれる場所も親も言語も選べない」という意識が常にある。それがクッツェーの創作の原点。その作品には「倫理性」というこの作家ならではの特徴がある。かたやアディーチェには「ヨーロッパから色眼鏡で見られてきたアフリカを書き変えたい」という強い想いがある。本当のアフリカの姿を伝えたい。それが作家としてのアディーチェのテーマだ。
講師自らの朗読は、アディーチェの『アメリカーナ』と『シーリング』、クッツェーの『少年時代』の部分訳。ストーリー性の高いアディーチェの小説はその先はどうなるのだろうという期待感を抱かせる。対して内省的なクッツェーの文章にも強力な磁力を感じる。どれも読みごたえがある作品であることに疑いはない。
後半は、2011年11月に旅した南アフリカの写真をスライドで紹介。この旅でくぼた氏はクッツェーの小説の舞台となるケープタウンの町やその周辺を巡り歩いた。「おまけ」は来日時に撮った2人のスナップ写真。睨むような視線のクッツェー氏と朗らかなアディーチェ氏。対照的な表情が印象的である。
「いままでの夢はある意味実現してきた」というくぼた氏。この先の夢は「もう一度ケープタウンに行くこと」だという。管氏が披露してくれたのは、「カレンダーにない1年があれば、その間にやり残している仕事を全部やる」という「究極の夢」。ユーモラスな夢にセミナーは笑いに包まれて幕を閉じた。

講師紹介

くぼた のぞみ
くぼた のぞみ
翻訳家・詩人
1950年生まれ。これまで、アフリカ発/系の作家や作品を訳してきてわかってきたことは私たちが追いかけてきたヨーロッパやアメリカの全体像。主な訳書にJ・M・クッツェー『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』『アメリカにいる、きみ』『明日は遠すぎて』などがある。

聞き手
すが けいじろう
詩人・比較文学者
1958年生まれ。主な著書に『斜線の旅』(読売文学賞)、『オムニフォン』、詩集に『Agend’Ars』、訳書にル・クレジオ『歌の祭り』、サン・テグジュペリ『星の王子さま』などがある。

2012年4月1日日曜日

書評:J・M・クッツェー『動物のいのち』

──フィクションにどこまで何ができるか──

南アフリカの作家J・M・クッツェーがノーベル文学賞を受賞、というニュースが流れたのは2003年10月だ。本書はタイムリーにその翌月出版され、帯には「邦訳最新作」とあるが、クッツェーの文章は全体の約半分。

 タイトルにもあるようにこの本は「動物の生命」をテーマに、米のプリンストン大学で行われた講演の記録である。まず同大学教授エイミー・ガットマンによる導入部があり、次に1997年と98年にクッツェーが行った講演(といっても、二部構成のフィクションを作家みずからが朗読したもの)がならび、さらにその内容に呼応して4人の学者が感想や意見を出すという構成だ。4人の学者とは、宗教史学者ウェンディ・ドニガー、英文学者マージョリー・ガーバー、人間生命倫理学者ピーター・シンガー、文化人類学・動物学者のバーバラ・スマッツで、原著は九九年にプリンストン大学出版局から出ている。
 ここでは、もっぱら作家クッツェーの文学形式に焦点をあててみたいと思う。

 本書に含まれる「哲学者と動物」と「詩人と動物」という2篇では、オーストラリアの女性作家エリザベス・コステロがマサチューセッツのアップルトン大学に講演者として招かれる、という設定になっているが、これはクッツェー自身の講演と講演内容の関係を、そのままテキスト内部に持ち込むという、いわば入れ子式二重構造といえる。こういった事実とフィクションの境界を曖昧にする、あるいは、相互に侵食しあう形式は、この作家がよくもちいるもので、第一作目『ダスクランド』から見うけられる。実在する人物や既成の作品、作家などを強く連想させる固有名を使い、その性格、役割などを微妙にずらしたり入れ替えたりしながら、無駄を一切削ぎ落とした静謐な文体で、新たな作品を創り出す、それがクッツェーの流儀だ。

 本テキスト内のアップルトン大学では偶然、エリザベスの息子であるジョンが物理学の教授をしている。クッツェーのファーストネームをもつこの「ジョン」は、主人公のかたわらに寄り添いながら常に冷静なコメントを発する人物として各テキスト内に顔を出す。これもまた、作家自身と作品内部の人物をダブらせ、事実とフィクションの相互侵食作用をうながす仕掛けだ。

 さて、テキスト内の主人公エリザベス・コステロは動物の肉を食べない。肉を食べる人間と同席して食事することにも耐えられない。家畜としての動物が食肉のために殺されることに罪悪感を抱いているのだ。「私の菜食主義は自分の魂を救済したいという強い願望からくるものです」といった発言が、息子家族とのやり取りや講演会後のディナーなど、いたるところで論争の火種をまく。彼女がやむにやまれずつい口にすることばが「動物の生命」をめぐる哲学的、倫理的な問題を惹起して、同席者の居心地をわるくするのだ。

 じつは、『少年時代』や『恥辱』でも明らかなように動物の生命に深い関心を寄せる作家クッツェーの、カウンター・エゴとも思えるこのエリザベス・コステロが、彼の作品内に登場したのはこれが初めてではない。1996年11月にヴァーモント州ベニングトン大学で行われた講演「リアリズムとは何か?」が翌年、同大学出版局から少部数出ているが、その冒頭に1927年生まれの作家として登場している。

 興味深いのは昨年9月、それらの講演も含む『エリザベス・コステロ』が1冊の本となって出版されたことである。目次を見てちょっと驚く。すべての章に「レッスン」という語がついているのだ。第1課「リアリズム」(ベニングトン大学の講演だ)、第2課「アフリカにおける小説」(アフリカで文学や作家がどのような位置にあるか)、第3、4課「動物の生命」(本書の内容)、第5課「アフリカにおける人文学」(南アのエイズ治療に献身する姉妹ブランシュの話)等と、まるで教科書のように読み進み、学んでいく構成になっているのだ。哲学や倫理学があつかうテーマを、いわゆる専門用語を用いず、老女性作家の口を通して、あくまでフィクションとして読者の前に提示するクッツェーの手法が際立つ。

 こういったクッツェーの作品を読んでいると、この作家に顕著なひとつの姿勢が見えてくる。フィクションに(文学に)どこまで何ができるか、と厳しく自問しながら、ヨーロッパ的価値観の根幹ともいえる部分へと遡及して書くスタンスである。この作家の核に染み込んだ「植民地アフリカ」が、作品の細部を照らすバックライトとなって、じわりと滲み出すのがわかるのだ。

 つい先ごろも書評紙「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス/1月15日付」に「ひとりの女性が老いていくと」という文章が掲載された。そこではコステロが息子ジョン、娘ヘレンと地中海リゾートのニースで再会する。「老い」を「死」を凝視するエリザベス・コステロの活躍はまだまだ続くようだ。

森祐希子・尾関周二訳(大月書店)

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付記:2004年2月14日付「図書新聞」に掲載された文章に、少しだけ加筆しました。
 この書評を書いてから8年にもなるのか、と時の経過を痛切に感じます。その後のエリザベス・コステロの活躍には目を見張るものがあります。