2010年6月20日日曜日

震える針先、揺れる心──クッツェー『少年時代』

<震える針先、揺れる心>

1999年8月、みすず書房からこの本が出るとすぐに、朝日新聞に(1999.9.5)清水良典氏の書評が載りました。とてもみずみずしい文章で、「少年」というものの普遍性と、クッツェーという作家の記憶への謙虚さを見抜いた鋭い評です。下にその一部を──。
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 だれでも自分のなかに最初の記憶を持っている。ぜひ一度、努めて思い出して文章に書いてみるといい。思い出さないままでいると、記憶は浜辺の貝みたいに時間の砂にもぐり込んで姿を消してしまう。──中略──本書では記憶の主がすべて「その子」と、三人称で書かれている。そしておよそ十歳から十三歳ごろにかけての生活の断片が回想されている。その記憶が「私」と同一視されていないことは、些細なようだが大事なことだ。今の自分と切り離すことは、過去の自分を曇りなく眺めることであると同時に、現在の見方の傲慢さを戒めることだからだ。そういう誠実さが、震える針先のような少年の心を再現しえたのだろう。──中略──十四歳以降の揺れる思春期が話題になりがちだが、それ以前からひとの心は揺れているのだ。読むうちにその振動と共振する、自分のなかの「少年」がいとおしくなる。(朝日新聞/1999.9.5 清水良典氏の書評より)
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<抄訳>
 犬が欲しい、母親はそう決める。ジャーマンシェパードがベストね──いちばん賢くて、いちばん忠実だから──でも売りに出されているジャーマンシェパードはいない。そこでドーベルマンが半分、ほかの血が半分混じった仔犬にする。彼は自分が名前をつけるといってきかない。ロシア犬ならいいのにと思うのでボルゾイと呼びたいが、本物のボルゾイではないのでコサックという名前にする。だれにも意味がわからない。みんなは、コス・サック(食糧袋)という意味にとって、変な名前だという。

 コサックは聞き分けのない、訓練されていない犬だとわかる。近所をうろつき、庭を踏み荒らし、鶏を追いまわす。ある日、彼の後ろから学校までずっとついてくる。どうしても追い返すことができない。怒鳴りつけて石を投げると、両耳を垂れ、尻尾を両脚のあいだに挟み込み、こそこそ離れていく。ところが彼が自転車に乗るとすぐに、後ろからまた大股でゆうゆうと走ってくる。とうとう、犬の首輪をつかんで家まで連れ戻すしかなくなる、片手で自転車を押しながら。向かっ腹を立てて家に着き、もう学校へは行かないという。遅刻したからだ。
 コサックは十分に成長しないうちにガラスの砕片を食べてしまう、だれかがわざと出しておいたのだ。母親がガラスを排泄させるために浣腸をしてやるが、うまく効かない。三日目、犬がじっと動かなくなり、荒い息をして、母親の手を舐めようとさえしなくなると、母親は彼に薬局まで走っていって、人に薦められた新薬を買ってくるよう命じる。大急ぎで薬局までいって大急ぎで戻るけれど、間に合わない。母親は顔がひきつり無表情で、彼の手から薬ビンを取ろうともしない。
 コサックを埋めるのを彼は手伝う。毛布にくるんで庭の隅の粘土のなかに埋めてやる。墓の上に十字架を立て、その上に「コサック」と書く。彼はまた別の犬を飼ってとはいわない。みんなこんな死に方をしなければならないわけではないにしても。

 J.M.クッツェー『少年時代』(みすず書房、1999年刊、一部改訳)より

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付記:少年時代のクッツェーが南アフリカの内陸ですごしたころのメモワールです。動物への陰湿な暴力を描いたシーンですが、訳したあとも忘れられない場面のひとつです。1999年の『Disgrace/恥辱』では、犬がとても重要な位置を占めてきます。『Lives of Animals/動物のいのち』へと発展するクッツェーの生命観は、少年時代のこんなエピソードのなかにもその核がひめられているのかもしれません。

 クッツェーのメモワール・トリロジーはその後、南アフリカからロンドンへ渡った60年代前半の青年時代に光をあてた『Youth』(2002年)、さらに70年代初めに米国から南アフリカへ帰って小説を発表しはじめたころを、凝った構成で描き出した『Summertime』(2009年)へと続き、完結します。

2010年6月11日金曜日

書評『この道を行く人なしに』──ナディン・ゴーディマ著

2001年2月、ナディン・ゴーディマの小説『この道を行く人なしに(原題:None to Accompany Me)』(福島富士男訳、みすず書房)が翻訳された。
 このタイトル、読んでお分かりのように、松尾芭蕉の句「この道を行く人なしに秋の暮れ…None to Accompany Me on this path: Nightfall in Autumn.」の一部を採ったもの。ゴーディマにしてはめずらしく速いテンポの文章で、楽しく読める。

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ある場所を通過する。一つの地点から別の地点への移動。ナディン・ゴーディマの小説を読むといつも出会う感覚だ。時間軸の移動も多い。たとえば目の前の一枚の写真から、いきなり立ち現れる出来事の記憶。それは主人公がある人物の顔に丸をつけて出征中の夫に送った写真だ。物語はそこから始まる。

 舞台は南アフリカ。主人公の白人女性ヴェラ・スタークが若くして結婚した夫はすぐに出征し、残された彼女は、仲間と出かけた登山で恋人ができる。写真のなかで丸く囲まれた顔がそれだ。帰還した夫と別れ、彫刻家を志すハンサムな恋人と結婚。一男一女をもうけながら、弁護士の資格を得て、土地を奪われた黒人が住み着いたスクウォッターキャンプの居住権をめぐり、農場主との裁判を処理する協会の弁護士として活躍する。この活動で体制側に与しない白人として、ヴェラは「運動」に関わる人たちとの信頼関係を築いてきた。

 作品内の「いま」は1990年初頭にマンデラが釈放されてから、初の全人種参加選挙の実施が決まる93年半ばまで。アパルトヘイト体制が崩壊して新体制へ移行する不安定な時代に生きる人々の姿が、いま目の前にある事実を曇りない目で描ききろうとする作家によって容赦なく描かれる。

 こう書くと、政治色の濃いステロタイプな小説と思うかも知れない。ところがゴーディマはこの作品のなかに、それとは別に、これまで書きたかったがさまざまな理由で抑えてきた、女性のセクシュアリティというテーマを、まるで堰を切ったように、ストレートに、過剰なまでに描き込んでいる。政治体制の抑圧や家族関係によって拘束されるジェンダーからかぎりなく自由に生きる女性の物語を読みながら、私は、ゴーディマっていったい何年生まれ? と思わず漏れる笑みとともに、何度も彼女の生年を確かめることになった。

 旧体制崩壊によって検閲制度が事実上失効した時期に書かれたこの作品は解放感にあふれ、これまでの作品群とはうって変わって、文体は流れるよう。読後感もすがすがしい。それは、以前のように、体制の抑圧に拮抗するため、容易には意味を明かさない(読む人が読めば分かるが、南アの事情を知らなければ深く理解できない)緻密な細部を積み重ね、読者の内部に動きをかきたてる作品を構築するといった、重い鎖から完全に解き放たれているからだろう。 そんな従来のゴーディマの小説作法には「場の芸術」と呼ばれる「連句の世界」と響きあうものが確かにある。この発見は大変面白かった。

 セクシュアリティのエネルギーをみなぎらせて、ひたすら自立した生を貫こうとするヴェラは、彼女を愛してはいても、時代と体制の変動が促す人間関係の変化に自分から関わろうとしなかった夫とは、共に生きられないと離婚。医師となった娘はそんな母親を批判してレズビアンの道を選び、銀行家の息子夫婦も離婚。家族のなかでヴェラの志を引き継ごうとする者はない。

 同志である黒人男性の家の敷地内に住むという選択をした熟年のヴェラ。その凛とした孤影を、ゴーディマは、風狂の世界で連衆心と孤心のあいだを往還した俳諧師、芭蕉の心象に重ねようとした。そんな「遊び心」が、この作家としては珍しく、笑いを運ぶ作品を生むことになったのかもしれない。

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初出は週刊読書人(2001年4月27日付)、長いあいだ「南アフリカのワインを飲む会」のウェブサイトに掲載されていましたが、サイトが今年いっぱいで閉じられるので、こちらに転載することにしました。