ことばを削る人だった。無駄と思えば、ぎりぎりのところまで削ぎおとす。言外のものをくっきりと浮かびあがらせる手法だ。読み手は浮かんでくるものを感知するため、ひたすら耳を澄まさねばならない。沈黙を聴き取らねばならない。詩とはそういう行為だ、とこの詩人は生涯かけて述べていたように思う。
思い出されるシーンはいくつもある。一九七一年の秋、巣鴨のとある喫茶店で、わたしが初めて詩を寄稿した同人誌の合評会が開かれた。すでに数人の学生が集まっていた。そこへ黒っぽいコートに濃いサングラスをかけた人物があらわれ、つたないわたしのことばを評して「これは添削したくなるような詩だ」といった。それが安東次男という詩人と初めて会ったときの記憶である。
またあるとき、ボードレールの『悪の華』を読む少人数の授業のあと、いつものように大塚の喫茶店へ流れた。ちょうど、彼の初句集『裏山』が出たばかりのころで、数日前の某新聞に加藤楸邨が文を寄せていた。ところが「蜩といふ名の裏山をいつも持つ」という代表的な句が、加藤氏の引用では「蜩といふ名の裏山をつねに持つ」となっていた。どうしてかなあと思って、まっすぐ詩人に訊ねてみた。にこやかな笑みとともに「ああ、いつも間違えるんだ」という返事が返ってきた。その語調にはとても温かなものがあって、師弟関係というのはいいものだなあ、と羨望の念をおぼえた。「いつも」と「つねに」では句のなかの動きや、句の姿が全然ちがいますね! と生意気盛りのわたしが突っ込むと、詩人は「ふむ、そのとおりだ」といって微笑んだ。『裏山』に加藤氏が寄せた「ひぐらしを聴かである日は阿修羅哉」という句の深い意味合いを、わたしが得心したのはずっと後になってからのことである。
旧植民地、北海道に生まれ育った人間には、和歌や俳諧の世界は異国の文化にもひとしく、しかし、そのことに気づいたのは東京に出てからだった。それまで自分がニホンジンであることを疑うことはなかった。自分が使っているニホンゴが周縁の文化に属するものであることにも、思いいたることはなかった。そのままで、イケル、と思っていた。大きなまちがいだった。打ちのめされた。「季語」などからきし実感できていなかったのだ。東京は雨の降り方からちがう。細やかに、しとしとと、やさしく降る。黄楊や椿の葉の表面にみられる蝋びきのクチクラ層は、北海道の樹木にはない。小学校の入学式の朝は猛吹雪だった。桜散る入学式風景など、遠い異国の観光写真そのものだった。古典を読んでも、語感がついてこないのだ。いちから学びなおしだった。安東次男の著作が、わたしの日本語再学習テキストとなった。
代表的な著作がおさめられた『安東次男全詩全句集』には、この詩人のエッセンスがぎっしり詰まっている。そして日本語ということばの魅力を、あますところなく伝えている。しかも、その無駄のないことば遣いには、まれに見る硬質な手触りがある。
現代詩としての作品がある完成形に近づくと、彼はそれをさらりと捨てて、削りに削った俳諧、俳句という、世界一短い詩のかたちへと向かった。さらには『芭蕉七部集評釈』の改訂につぐ改訂。掘り起こしの作業。このようなテキスト群を残してくれた詩人にわたしは感謝する。
思うにこの詩人は、その作品行為において、完璧であろうとすることをあえて避け、未完であることを目指したのではなかったか。未完とはこの場合、ある種の沈黙がありありと出現するよう仕掛けることだ。彼はその作品に、そこから次にくる者が受け継ぐほつれ、つながり、といった「歯型」のような、抵抗感のある触感をこそ刻みつけようとしたのではないか。作品を読み解く手がかりとして。読み手が受け継ぐべき核として。とりわけ後期の作品は、読んでさらさらとわかったつもりになれるテキストではない。だが、そこに作品として残されたものは、この日本という多湿の地において、なんとか「他者」を迎えようとする、全身全霊をかけた一連の作業の結果のように思えてならない。
一度だけ、北海道生まれの者のニホンゴの語感は内地生まれの人のものとはまるで違う、とこの詩人に訴えたことがある。すると、ゆるぎなき京文化のなかで青春をおくった人は、そんな違いはなくなるところまで行きなさい、と急に「威張りの安東」になった。それは違う、それでは「他者」は見えない、と旧植民地生まれのわたしはいいたかったけれど、そのときは反論することばをもたなかった。思えば、それ以来のこだわりが、わたしを、世界文学のなかでも境界線上に身を置く作家──南アフリカ出身のJ・M・クッツェーやカリブ海出身のマリーズ・コンデ──の作品を日本語に移しかえることへと向かわせたのかもしれない。ふたたび感謝する。☆
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付記:──「現代詩手帖 」2008年9月号/安東次男特集に書いた文章です。